彼女のいた街角
序章 旅立ち
目の前に放り出された小さな袋が、じゃらっという金属の重い音を立てた。小テーブルの上に何枚かの銅貨がこぼれる。古くて、ボロボロの金。でもそれを集めるために、どれだけみんなが苦労してきたかを、オレは知っている。
「……ボス。オレはここに…ここにいたいのにっ!」
言い募るオレに、ボスは片手で目を覆い何も言ってはくれない。そのでかい手に、頭を撫でられて褒められると嬉しかった。叱られたときは、容赦なくぶん殴られた。
「オレ……なんかした?」
擦れる声も、震えが止まらない体も、拳を固く握って押しつぶす。
「早く行け」
ボスは顔をあげ、そう言うと、袋をもう一度手に取り、オレの胸元へ押し付けた。反射的に受け取ってしまう。ずっと、ずっと一緒にいたのに、ボスの顔はオレが今まで見たこともないほど、苦渋に満ちていて、いっそ泣きそうに見えたのかも知れない。
そのまま、きつく抱きしめられる。震えているのは、本当はどっちなのか。彼の短い髪が頬にあたる。その肩越しに、やっぱり苦しそうに目を逸らす男が見えた。
「お前が誰であっても、チェリス……
お前は家族だ。
どこにいても……お前は…
俺の……」
耳元で囁くボスの声に涙があふれた。小さい頃に戻ったように泣きじゃくると、ボスは体を離し、両手でオレの頬を包むと、目を合わせた。彼の目にも涙が滲んでいる。
「……いつだって、俺たちはお前を愛しているから」
両手が離れる。
「早く行け!」
一歩。二歩。迫力に押されるように後ろに下がる。
そして、ドア代わりの布を押して外へ出ると、オレはもう後ろも振り向かずに、走り出した。子供のように泣きながら。なんで出て行かなきゃいけないのかとか、どこまでいけばいいのかとか、事情も目的も期限も何もかもが分からないままでも、「家族」だと言ってくれた彼を信じようと思った。それでも、悲しくて。本当は、出て行きたくなんてない。
(あの新顔が……多分、何か知ってるんだ…)
ボスの後ろに立ち、何も言いはしなかったけど、オレの過去をあの男は、何か知っているのかもしれない。そうじゃなければ、こんなにも突然、出て行けなんて言われることはなかった。立ち止まれば戻ってしまいそうで、オレはいつまでもいつまでも走り続けた。
そう。そうして最後の旅が始まる。
第一章 遭遇
しん、と静まり返る夜の町を宿の窓から、ぼんやりと眺める。この時間なら、本来はすべて闇に沈んでいなければならない筈だが、所々でぼんやりと店の明かりが灯っているのが見える。
(こういうのは柄じゃないんだがなぁ)
王都に比べれば、治安も良くはない。だがあの街ほど臆面がなないわけでもない。そんなこの街の雰囲気が、妙に感傷的な気分にさせる。俺は目を閉じると、苦笑で口元が歪むのを感じながら、ここに来なければならなかった、その理由を思い出していた。
世界の危機など、実感など持てる筈もない。戦場も何度か見てきた、命の危機も何度かあった。その程度、軍属ならば誰もが経験している。胸の階級章は伊達や酔狂で下げているわけではない。
(あのじじい、『鍵』だと?昔話を引っ張り出してきやがって……)
忌々しさに舌打ちを抑えられない。
この世界の創世記には、神が闇を封じたという伝承がある。宗教ごとに細部の違いはあるが、大筋に変わりはない。封じられた闇とは、人の悲しみや絶望、憎しみや諦めなど、まぁよくある話だ。だったら、なんで今もそれがこの世界にあるんだと言う話なんだが、宗教家の考えはよく分からない。本当になくなっているのなら、諍いの種がどれほど減るというのか。
(いや、そうじゃない……)
変な方向へ思考が向かうので、ため息交じりに頭の中身を切り替える。
とにかく、封じられたものは大人しく閉じ込めておけばいいものを、わざわざ、そんな面倒くさいものを解放するために『鍵』を作り出したのだと言う。誰がなのか。人間が自らだというから救えない。
「ナザー。そろそろ時間ですが、起きていますか?」
「あぁ」
控えめに扉が叩かれ、返事に黒髪の男が苦笑しながら、入ってきた。そのまま、手にしていた書類の束をベッドサイドのテーブルへ置く。
「珍しいこともあるものですね、貴方が寝ていないとは」
遠慮のない言葉にやや閉口する。
「上官に向かって、すごい言いようだな、レジアント補佐官」
「幼馴染相手に遠慮は無用。それどころかうんざりすると言ったのはナザーですよ」
さらっと言い返されてしまう。子供の頃から、口喧嘩、議論口論の類で俺は彼に勝ったことが一度もない。続けたところで実もないので、さっさと話を切り替えることにする。
「だいたい、調査に出るって言うから待ってたんだろうが。どこ行ってたんだよ、レジ」
彼はちらっと先ほど置いた書類を見て、ため息をついた。
「軍の支部へ。思ったよりも腐敗していますね、このユハルという街は」
「元々は世界でも有数の美しい街と評判だったんだがなぁ」
治安も良く、人も優しく、世界の見本とまで言われた街だったが、評判を聞きつけた人々が、大挙して流入しただけで、あっという間に他と変わらない、むしろ悪いくらいに腐敗したという。今では立派な歓楽街となったこの街。
「ですが、身元を隠したい者が潜伏するには良い街です」
追われている者とか、な。と心の中だけで呟く。
「じゃあ、さっさと出るか。あまり遅くなっても人が減る」
レジも頷き、俺は立ち上がった。
深夜営業の酒場に軍服のまま入る。本来ならば懲罰ものの行為と違法営業なのだが、この街では、そちらの方が目立たないくらい軍人の姿が目に入る。俺とレジも適当な酒場に落ち着いた。レジはさっきから頭痛が止まらないと言いたげな顔をしている。正直、俺もこの無法振りに頭痛がしているくらいだから、生真面目なレジには堪らないだろう。
「それで、本当にこの街へ向かっていると占者は言っているのか?」
一応小声で聞くが、周囲は酒だか何だか分からないものを、がぶ飲みしながら大声で話し合い、どうせ周りのことなど見ても聞いてもいない。
「えぇ。神官から軍の方へ」
「ああ、そう」
うんざりと返事をする。レジも苦笑いを隠すように、酒に口をつけた。
「一度、取り逃がしていますからね。神官も焦っているんでしょう」
そう言いながら、煩そうに片耳を押さえる。酒場の中では、軍人が数人に分かれて軽く乱闘が始まりかけ、応援を始める者や賭けを始める者で賑やかだ。
(しれっと言うなって……)
俺の記憶が正しいなら、レジが潜入捜査に入っていた以前の町で、まんまと『鍵』に逃げられたのは、約一ヶ月前の話だ。正直なところ、俺も『鍵』の出現には半信半疑のため、個人的に責には問うていないが、神経質な神官が裏から軍に手を回したせいで、俺もレジも他の仕事を一時的に中断してまでユハルに派遣される羽目になった。
店の中を見ていても面白くもないので、外に目を向ける。ふと、一人の少年が目についた。肩を落として酒場から出てきて、ふらふらと力なく歩いている。恐らくスラムの子供だろう。小柄で痩せていて、服もそんなに質のいいものではなさそうだ。「危ない」と思う間もなく、少年は一人の軍人にぶつかり転んだ。
「どうしたんですか?」
レジが俺の視線を追う。
少年とぶつかった軍人は機嫌が良かったらしく、「気をつけろよ」と笑いながら言い、女と歩いていったようだ。
椅子を引く音に視線を戻すと、レジが酷く慌てた様子で外へ飛び出していくところだった。
「…………は?」
一瞬、呆然と見送ってしまう。そのまま、さっきの少年のところへ向かっているようなので、俺は急いで金を払いレジの後を追った。
「レ……ジアント?」
二人のもとへ駆け寄ると、少年は座り込んだまま驚いた顔でレジを見上げ言い、レジは彼の腕を掴み何故か怒ったような顔で黙っていた。僅かな沈黙の後、レジは口を開いた。
「何故ユハルへ来たんだ、チェリス」
静かにレジは怒っていた。その迫力に一瞬少年は言葉に詰まった。
「ってめえには関係ないだろ!
オレはどこに行けばっ……」
(女だったのか)
座り込んだままで、言葉を詰まらせたチェリスと呼ばれた少女に、レジは苦しげに目を逸らした。ぶかぶかの男物の服で乱暴な言葉遣いだが、その叫んだ声は少年ではなく少女だった。
「レジ。女の子にそんな物言いはないだろ」
軽く言いながら彼女の腕を掴んで、引き起こしてやる。思っていたよりも更に軽く、服の下の腕に何かつけているのか、固い感触がした。素直に立ち上がり俺を見た彼女は、少しよろけたが、次の瞬間怯えたように身を竦ませた。
「……軍人?」
ぽつりと小さな呟きに、笑って答えようとしたが、その前にレジが彼女の腕を引いた。彼女は引っぱられるままに、俺の手を離れ彼の影に隠されてしまう。
「ナザー、すみません。ちょっと彼女に急用がありまして。先に帰っていて頂けますか?」
「あ、あぁ」
作り笑いで彼は言うと、俺が頷くのも待たず、踵を返し彼女を引っぱるようにして早足で歩いていった。
「……あの馬鹿がっ」
毒吐いて、俺はレジの後を追いかけた。
第二章 任務
レジの目的地は、先ほどの街中からそう離れていない人気の少ない空き地だった。二人はつけられているとは思う余裕もないらしく、こちらに気付く様子はない。少女は見た目通りに体力がないらしく、少し疲れた様子で空き地の片隅にある木材に座り込んだ。レジはその前に立っている。
「何故ユハルへ来たんだ」
よほど余裕をなくしているのか、常日頃から絶やすことのない丁寧な言葉遣いすらなくしている。
「ここら辺で、一番でかい街だから」
息を整えるための深呼吸のせいか、幾分落ち着いた様子で彼女はふてくされるように答えた。僅かに沈黙すると、彼女がまた何かを言い出す前にレジは口を開いた。
「今すぐに……この街を出ろ」
彼女に血が上ったのが分かった。
「なっ……んでだよ!
理由を言えよっ!!
なんでオレは出てかなきゃなんなかったんだよ!!」
「言う必要はない」
きっぱりと言い切るレジの言葉に、傷ついたように声を呑み、そして振り切るように頭を振った。
「お前がっ!
レジアントっ!
お前がボスに何か言ったんだろ!?
だからっ」
「そうだ」
あくまでも短く答えるレジに、彼女は怒りに震え、彼を泣きながら睨み付ける。そして、彼がそれ以上何も言わないのが分かると、乱暴に袖口で顔を拭い立ち上がった。
「オレは帰る。訳も分からずこれ以上旅なんかやるもんかっ」
低い声で吐き捨てるように言い、歩き始めた彼女を、レジは腕を掴んで引き止めた。
「離せっ!
オレはボスのところに帰るんだ!
もういやだっ!!」
叫び、暴れる彼女にレジは何度か言いよどんだが、やがて意を決したように視線を合わせた。
「……クロウェルに」
その名前に彼女の動きが止まった。
「クロウェルに、俺たちはチェリスを殺すために来た、と言った」
「え……?」
(…………やはり…か)
俺は天を仰いだ。だいたい予測はついていた。それ以外に、レジがこんな行動をとる必要がない。
「頼む。逃げてくれ」
レジが手を離すと彼女はもう何も言わなかった。ただ、黙ったまま、彼の横をすりぬけ、俺に気付くこともなく、夜の街へと走り去っていった。残されたレジは、俯いて小さく息を吸い込むと深く深くため息をついた。
「任務を放棄する気か、レジアント」
微動だにしないレジに声をかけると、彼は疲れたように少し笑って顔を上げた。
「ナザー。あの子は『鍵』ですが、普通の娘でもあるんです」
彼は、彼女が座っていたあたりを見つめながら、静かに静かに言った。俺は音がする程拳を握る。これは、明確な命令違反だ。大切な部下であり、幼馴染で、親友でもある彼を、俺は失うわけにはいかない。彼のこの様子では、調査中に逃げられたのではなく、調査後に彼が自分の意志で彼女を逃がしたのだ。このまま、こんなことを続けてはいつか近くにも命令違反は露見するだろう。
俺は彼の襟元を掴み上げ、こちらを強引に向かせた。
「レ…」
「クロウェル……あぁ彼女のいたスラムのボスですけどね」
視線を合わせた彼は早口でかぶせるように言った。
「彼自身がまだ15かそこらの年で4つか5つかのチェリスを拾ったそうですよ。
それから10年もの間、育ててきたと。
名前も過去も忘れていた彼女に名前をつけ、ボスになる前も、なってからもずっと一緒にっ。
掃き溜めのようなスラムの生活の中で彼女の存在がどれほどの救いになっていたかと
……家族なんだ。娘のように愛している、と」
レジは俯いた。
「俺だって……同じです。
親も兄弟もいない。
ナザーの家に救われなければ、スラムから這い上がることもできなかった……
彼女と俺のどこに違いが…」
「レジアントっ!」
力を込めてレジの頬を殴った。吹き飛んだ彼は奇しくも、先ほど彼女が座っていたあたりの木材に倒れこんだ。その彼に俺は抜き身の剣を突きつける。
「ならば、その制服を脱ぎ軍から退役するかっ!
貴様のしていることは、ただの感傷だ!
それが、彼女をより追い詰めることが何故分からない!
神殿の占者から逃げられないことなど、分かっていたことだろう!!
獣のように追い立て、結局は殺すのか!
今、殺してやるのが温情なんだ!!」
一息に言い切り、肩で息をする。
「……分かっています。すみません、ナザー。馬鹿を言いました」
彼は無表情に体を起こすと言った。
「分かっています……」
空を見上げ彼は呟く。夜も明るいこの街の中心部からは星も見えはしない。
それでも、レジはずっと空を見上げていた。いつか星が見えると願うように。
第三章 絶望
チェリスの行方について、報告が宿に届いたのは、翌日の昼頃だった。軍人ではない彼女が、この街で動けば目立つと踏んだのは正解だったようだ。彼女は今朝、偶然知り合った神父に連れられ、その神父の教会へと立ち寄っているらしい。恐らく行く先も決められず途方に暮れていたのだろう。それは、目に浮かぶような普通の娘の姿だ。レジに言われるまでもない。俺だって、任務でもなければ、こんな仕事をしたいと思うわけがない。
軍服が闊歩するこの街では、準備という程のものもなく、ただ覚悟をするだけだ。ちらりとレジを見ると、彼も奇妙な程静かに、冷静に剣を差し準備を終えた。
「今回は、待っていてもいいぞ」
一応、声をかけてみる。彼は少し目を見張ると、静かに笑って首を横に振った。そして、それだけでは足りないと思ったのか、口を開く。
「いいえ。俺は、自分の言った言葉の責任ぐらいは取りたいですから」
「そうか」
これ以上、俺から彼に言う言葉はない。部屋を出ると、張り詰めた空気に、いつもは余計なことさえ口に出す宿の主人すら何も言わず静かに頭を下げて見送ってきた。
逗留している宿が、中心街から少し離れていたこともあってか、町外れの教会へはさほども経たずに到着した。大きな街だからか、それなりに大きな教会で詰め所があった。礼拝もない日は、そんなものなのか、ややだらけた様子の門番がそこには詰めていた。
「チェリスという少女が来ている筈だな」
「あぁ、来てますが……軍人さんたちは何の用事で?」
門番の話に付き合う気もなく、「通らせて貰う」と言い置き、彼の抗議を無視して教会へ足を踏み入れた。だいたいどこも構造は似たようなものなので、来客室に辺りをつけて、ひんやりとした廊下を進む。石造りの床に二人分の軍靴の音が、規則正しく響く。ゆるやかな曲がり道を進むと、ちょうど来客用のお茶を持った女が部屋の前に立ち、こちらを驚いたように振り向いた。
「あの……何の御用でしょうか?」
控えめに彼女は言い首を傾げた。数歩で近付き、彼女の前に立つ。
「チェリスという少女に会いに来た。この部屋か?」
「そうですけど……」
不審そうに言うその様子に何か引っかかりを覚えた。次の瞬間、ドアが開き、中から神父が姿を現した。奥には服を着替え、首から赤いチェリの石を下げているチェリスが見えた。この教会の服を借りているのか、粗末な灰色の、お茶を持つ女と同じ服。
何かを見落としている気がして、思わず黙り込んだ。女が部屋の中を向き、目を見開き、お茶を取り落とす。酷くゆっくりとカップが床にぶつかり、激しい音を立てた。
女はがたがたと震え出し、チェリスを見つめている。そして、チェリスと女の目が合う。強烈な寒気が背筋を這い上がってきた。
「お………かあ…さん?」
「いやああああああああああああああああっ」
女の悲鳴が教会に響いた。女はすべてを拒絶するように、耳を両手で塞ぎ、目を閉じ、うずくまった。
「あなたは死んだのっ!
せっかく10年もかけて忘れたのにっ!!
しっかりと、殺した筈なのにっ!!」
女の叫ぶ言葉だけが奇妙に響く。チェリスの目から涙が零れた。
(闇が……)
目の前が真っ暗になる。物理的にははっきりと見えている。だが、まるで何も見えなくなりそうな程、心が、黒く塗りつぶされていく。パシッと小さな破裂音がして、チェリスの胸元から石が砕けて落ちた。胸元と、腕。二つの石が砕けて床に転がる。
「封印が……」
酷く遠い声でレジが苦しそうに呟くのが分かった。
「うわぁぁぁん。あぁぁぁぁぁ……」
暗闇の中で子供の泣き声がする。世界が終わってしまったような、胸を引き裂くような悲しげな泣き声だ。怨嗟の声が子供にまとわりついて離れない。痛くて辛くて、もう泣くことしか出来ないんだ。
「そんな子はいらないのっ!
早く誰かその子を殺してぇっ!」
あれは子供の母親の声だ。子供はなす術もなく泣き続けている。
呪いのような痛みの中で、少女は声もなく泣いている。泣き喚く女とは対照的に。チェリスは暴力のような記憶の中で、ただ宙を見つめて静かに、声も立てず、涙を流し続ける。伝わってくる苦痛にもう動くことすら出来ない。
ふと、視界の端に動くものがあった。たったひとつだけ。
「あ……あなたには」
ゆっくりとした動きで、レジアントがチェリスに手を差し伸べた。彼女からの反応は何もない。子供の泣く声は、心を壊されそうな程大きくなってゆく。
「……まだ…クロウェルが……まって…」
押しつぶされるように地面に伏せながら、それでも手を伸ばすことをやめずレジアントは言う。少しだけ泣き声が小さくなった気がした。
「………」
両腕に力を込めて、レジアントが体を起こした。
「負けるなチェリス―――!
クロウェルのところに帰るんだろ―――っ!!」
彼女が振り向いた。
すべての泣き声が消えた。残ったのは、うずくまる女の小さな声だけだ。どっと力が抜け、荒い息をつく。
「帰り…たい……」
チェリスは泣きながら、うっすらと微笑みを浮かべた。
「ボスの…ところへ」
「帰るんだ。クロウェルだって待ってる」
荒い息で、酷い汗をかきながらもレジアントが答える。その言葉に、彼女は嬉しそうな顔で笑った。
「帰り………た…かった……」
そして、空気に溶けるように消えた。残されたものは、赤い砕けた石と、灰色の服だけ。彼女はほかに何も残さなかった。
「チェリス?」
レジアントが彼女を呼ぶ声だけが、虚しく響いた。
「こちらです」
神父に案内され、俺はひとつの墓の前へ来ていた。この教会で管理している、あの女の娘の墓だ。墓碑に名は刻まれていない。今、ここにレジはいない。あの後チェリの石を拾うと、少しだけ一人にして欲しいと言って、どこかに行った。泣きに行ったのかも知れない。
「十年程前、娘が『鍵』と宣告された、と遺体を持って来られたのが彼女だったのです」
神父は静かに語る。それは、失われていたチェリスの過去だ。
「気付くべきだった。あの女と彼女が似ていることに……」
(いや、昨日のうちに殺してやるべきだったのかも知れない。絶望するよりも前に)
悔恨が胸に積もる。結局、俺には何一つ出来はしなかった。まるで、世界が彼女に絶望ばかりを引き寄せていると、そう気付いていたなら、俺に何か出来ただろうか。
「人の罪を一人の少女に押し付けてしまった。それこそが、私たちの罪というのに」
神父は名もなき少女の墓に祈りを捧げる。この男も何も出来なかったと悔やんでいる。俺は、一度だけ彼女に祈りを捧げた。今まで殺してきた幾多の人々にしてきたように、たった一度だけ。この先、今日という日を思い出すこともあるだろう。だが、俺は俺が殉じるもののためだけに生きていく。結局、そうとしか生きられない男だ。
俺は踵を返すと、祈りを続ける神父に背を向け、もう祈りはしなかった。
終章 手紙
「娘の遺品、感謝する。 クロウェル」
棚からひらりと落ちた短い手紙。あのスラムのボスは、今でもチェリスを娘と呼ぶ。文字なんて知らないと言っていたから、この手紙も代筆を頼んだらしい。あの日、砕けてしまったチェリの石を、彼は今も持ち続けている。そして「あいつが俺以外のどこに帰るんだ」と快活に笑っていた。
あれから、二年が過ぎていた。
『鍵』の抹殺任務の功績を認められ、ナザーは異例の早さで将軍へと昇格した。その参謀としての多忙な日々に紛れ、彼女のことを思い出すことも少なくなった。名前も失った少女ではなく、チェリスが育ったこの町に赴任していながら。
あの事件より一年後から、この町では国家の主導で、法や雇用の整備が始まっていた。これは当初の予定でもあったのだが、スラムの解体や子供たちの工場への雇用なども、クロウェルの協力あってこそ、何とか回っているというところだろう。だから、彼女の育ったあの廃工場も、もう残ってはいない。
今日は、久しぶりに見つけた手紙のせいか、やけに彼女を思い出してしまう。時々、こうしてチェリスを思い出すと、彼女は本当にいたんだろうか、と思ってしまう。俺たちが、この世界が彼女を殺したと言えるのに、身勝手な話だ。
世界が彼女を追い詰め、拒絶した。彼女は、俺たちを恨んでいるだろうか?それでも、「帰りたい」と彼女は言った。この町へ、クロウェルの元へ。チェリスは人を愛していたと思う。世界と自身の絶望の中で、潔く世界を救うことを選んだ。そういう、娘だった。世界を滅亡させるという『鍵』が、本当はどちらだと言うのか。俺には、今も正直答えを出すことが出来ない。
けれど、泣きながら、笑って消えていった彼女のことを俺は忘れてはいけないと思う。それくらいのことしか、きっと出来ないのだろう。『鍵』を生み出してしまった俺たちには……
「参謀!ナザー様が、また失踪なさいました!!」
若い兵士の悲鳴のような報告に、ため息をつく。俺は手紙を片付けると、ナザーを探すため部屋を出た。
帰りたい家があって 大好きな人がいて たまに喧嘩もして 普通に仲直りもして 毎日が過ぎてゆく そんな幸せを求めて そんな平凡な幸せを夢見て……