====== 陽炎の時間 番外編 ====== >それは赤い男が運命の火を見るよりも もう少し前 >悟浄が三蔵と出会うよりも前の >そう、それは悟浄が山賊としてようやく >名をあげ始めた頃のことだった…… ----  形ばかりの言葉と愛想笑いに疲れた僕は逃げ出すように家を出てきた。ぼんやりと山のふもとで座り込んだまま、目に優しい色の山を見つめていた。本当に悲しい時には涙も出ないのだと妙に実感する。頭の中はからっぽで、考えることをやめているのか、本当に考えられないのかさえ、今の自分にはわからない。  悲しそうなフリをして、嘘と分かりきった言葉を吐き、聞こえよがしの陰口を叩く人々に心底うんざりし、そんな相手に笑いかける自分に嫌悪した。 「…………僕は……」 いっそ死んでしまった方がいいと思うが、臆病なのか他に理由があるのか、僕は死ぬことも選べない。 「僕はっ…………」 軽蔑と悪意がどこまでも付いて来るようだった。嘲笑が、ため息が僕の罪を知っている気がした。怒りも絶望も何もかもが、今はただ無意味だった。 「どけっ!あぶなっ……」 ドサッという重い音に続いて、何か赤いものが広がった。驚いて動くことも出来ない僕の前で、しかし倒れている何かは動く気配はない。悪い夢かとも思えてくるそれから、僕は逃げ出すことも直視することも出来なかった。 「ぐっ……ぅげほっ………」 考えてはいけないものがあると無意識の警告に僕は俯いて咳き込んだ。右目が激しい痛みを訴え始めた。 「……ってぇ!うわっ口ん中にドロ入ってんじゃん!!」 「え……っ?」 顔をあげた僕の目の前で一人の青年が体を起こし、毒づいている。僕は全身から力が抜け、呆然と青年を見つめた。  その人はとても不思議な色をしていた。どうやら僕は彼の赤い髪を血と間違えていたらしい。長身で動き易そうな服を着ている。振り向いた瞳は髪と同じ、燃えるような深紅だった。 「……おっ……おいっ!どうしたんだっ?!」 「…………」 彼の叫ぶ声を聞きながら、僕はゆっくりと体中の力を抜いた。快い眠りがようやく訪れそうな気がしていた。  僕が目を覚ますと、赤い色の青年は不機嫌な顔で僕の隣に座っていた。どうやら僕は、いきなり倒れて眠り込んでしまったらしい。彼にしてみれば迷惑な話だろう。そろそろ太陽が沈みかけている。 「……あなたは山賊の方ですか?」 ぼんやりと僕が言うと、彼は振り向いて何だかすごく嫌そうな顔をした。 「あぁ。俺が沙悟浄だ」 「聞いたことがあります。こんなに……若い方だったんですね」 彼はまた嫌そうな顔をしてため息をついた。  そろそろ風が冷たくなってきていた。僕は体を起こすとため息をついた。こんなに長い時間外出していれば、家の者が心配しているだろう。 さすがに今日は…… 「おい。お前っ!ここは山賊が出るって意味分かってるのか?!」 悟浄の声に僕は我に返ると、先刻より更に不機嫌になった悟浄が僕を見ていた。僕はなんだかどうしていいか分からなくなってしまった。  なんだか泣きたいような気になったが、そんな資格もない気がして、困って笑うと、彼は更に嫌そうな顔をした。 「…あのなぁ……」 俯いて怒鳴りかけた声は、何故かため息に変わった。 「……何、見てんの?」 「え…あぁ、綺麗ですよね」 彼はそのまま自分の背後を見、何もないのを確認すると、また僕を見た。不審そうな顔をしている。  彼の仕草が何だか可笑しくて、僕は少しだけ笑った。  僕は彼が眩しくて、ほんの少し恐いもののように思えた。 「貴方は夕焼けのようですね。まるですべてを……」 彼は唇を歪めてニヤリと笑った。 「俺の時間はこんな時間じゃないぜ」 そうして、彼は存外平気な顔をして立ち上がった。長い髪がふわりと目の前を横切った。 「じゃあな」 「またっ…会えますか……」 何故、あんなに僕は必死だったのか…… とにかく彼はきょとんとして目を丸くして僕の前にしゃがみこんだ。  赤い目が僕の姿を映していた。 「お前、変わった奴だな」 「おい……八戒」 ぼんやりとしていた僕は、何故か笑顔を浮かべると振り向いた。燃えるように赤い髪の男が窓に腰掛けていた。  彼はなぜか嫌そうな顔で僕を見つめた。 「…………猪悟能」 「今はもう、猪八戒ですよ。悟浄」 彼はまた嫌そうな顔をした。そして諦めたようにため息をついた。僕はクスリと笑って、机の上に散らかしていた本を片付ける。  そして、することもなくなって、僕は悟浄を見て、手を止めた。  どうして彼はこんなにも綺麗なのだろうといつも思う。いつも唇は歪んだ笑みを浮かべるのに、目はあんなに真っ直ぐに澄んでいて…………  フッと影が落ちた。悟浄の顔が近付いている。そのまま、彼は僕の目を覗き込んだ。 「……僕もオニなんでしょうか」 「赤オニ、青オニってか?」 「それもいいかもしれませんね」 くすくす笑いながら言うと、悟浄はまた嫌そうな顔を見せ、僕を抱きしめた。哀しい行為だと思った。  だけど、しがみつくように相手に追いすがっているのはどちらだろう。 「変な奴が入った。……なんか…あー、お前は気に入るかもな……」 心底困ったと言いたげな様子で悟浄は言った。彼はすでに僕の入れない世界に想いを馳せていた。 「その人、何て名前なんですか?」 笑顔で聞くと、彼は眉根を寄せ紅い髪を掻きあげた。 「……悟空」 >そうして、運命は一人二人と其の輪に捕らえる >そうして、集められてゆくのだ >其の運命の日に向けて >幻はゆらゆらと 真夏の陽炎のように >ゆらゆらと  ゆらゆらと…… {{tag>text}}