====== 帰れないあの日 ======
> それは、遥か昔々の話。
> それは、忘れられた過去。
> そして、忘れられない思い出……
===== 1 小さな願い =====
低く咳の音が部屋の中にひっそりと響いていた。朱鈴は喉を押さえると小さく息をついた。
心音が早くなっているのを感じながら、彼女は泣きそうになった。
絶望……
それは、彼女の中でもうずっと荒れ狂っていた。しかし、彼女はそれを表に出すことを潔しとはしなかった。
だから、きっと誰も気付かなかったに違いない。誰かがいる限り彼女は微笑を絶やさなかったのだから……
死の床に伏せったまま、もう長いこと彼女は明確な絶望を見つめてきた。それは何よりも孤独なことだった。
誰も気付かない苛立ちを彼女はずっと抱えていた。
彼が現れるまでは……
彼は永遠だった。彼が世界だった。そして、何よりも彼が希望だった。
「まだ、死ねないの……あと、もう少しだけ……」
伝えたい言葉は、いつだってあふれていた。
聞きたい言葉も、いつもあふれていた。
限られた時間を、大切にすることを彼女は知っていた。
===== 2 誕生 =====
「ちゃんと寝てるのか?本を読むのも程々にしておかないと……」
「お兄様こそ、ちゃんと寝てるの?知ってるわよ、昨日遅かったの」
くすくすと笑いながら朱鈴が言うと、朱晟は困ったようにため息をついた。
「……それにこの本、本当におもしろいのよ?お兄様」
「そうか……」
笑顔で言った朱鈴とは対照的に、朱晟((本当は【せい】の字は、さんずいに祭と書くのだが、機種依存文字だったため、断念。
))は暗い顔で呟いた。それを見て彼女は一瞬表情を曇らせた。暫くの沈黙の後、朱晟は顔を上げた。かすかに疲れの残った顔に無理のある笑顔が浮かぶ。
「私は少し出かけるが、いい子にしてるんだぞ。」
くしゃり…と頭をなぜた朱晟に、彼女は膨れた顔をした。
「はいはい、行ってらっしゃいませ。もうっ、子供扱いして!!」
朱晟は年相応の快活な笑い声を残して、部屋を出て行った。それを見送る朱鈴の表情が再び曇った。他の人間には見せない一面だ。
「いつも……残されるのは……」
ため息のように小さく呟いて、初夏の庭を彼女は見つめた。窓の外は光に満ち、鳥が風がざわめいていた。朱鈴は外を見るのが好きだった。本当は外に出て胸一杯に空気を吸い込んでみたかったのだが、彼女の体はそれだけの運動も許してはくれなかった。
一人でいる時まで、笑顔を浮かべることは彼女には出来なかった。だからと言って、泣けば心配をかけるだけなのを彼女は知っていたし、優しすぎる周りの人々が悲しむのを知っていた。だからこそ、彼女に許されるのは小さくため息をつき、膝の上に置かれた本を開くことだけだった。
何かの予感だったのだろうか。
そう長い時が経たないうちに、彼女は自分の生涯が閉じることを知っていた。彼女はただ本を読み、微笑を浮かべ残り少ない生を漫然と生きていた。まだ、始まってはいない焦燥感を持て余していた。長引くだけの苦しみに、もう死んでもいいと思いながら、彼女は生を諦められなかった。
ふと、彼女は風を感じて窓の外に目を向けた。眩しすぎる庭に一人の男がひっそりと立っていた。どこから現れたのか、青年は僧服に身を包み、不安そうな眼差しで彼女を見つめていた。
「あなた…妖怪でしょう?私、きっと貴方に会いたかったんだわ」
気が狂ったと思われても仕方がない。ただ彼女には奇妙な予感があった。昨夜からずっと読みつづけていた『西遊記』((さいゆうき。【Hsi-yu-chi】
中国、明代に完成した長編口語小説。【三国志演義】【水滸伝】【金瓶梅】とともに【四大奇書】と称せられる。
玄奘三蔵法師が、天竺へ経文を戴きに行く旅の途中、供に妖怪『孫悟空』『猪八戒』『沙悟浄』を連れ、
やがて、観世音菩薩より経文をいただくという話。
話は全百章あり、それぞれ、天界編などにわかれている。
また、彼ら登場人物たちは、それぞれ天界編の頃に天界にいたという設定となっている。
そして、最後にはまた天界に戻ってゆく。
【唐三蔵西遊伝】および、一五九二年に刊行した【西遊記】が今に伝わると言われている。
作者は、呉承恩と言われているが、この小説は彼の出生に前後してほぼ完成の域に達していた公算が大きい。
ちなみに、日本に渡来したのは、およそ江戸初期。
それが、江戸中期から後期にかけて、庶民の読み物として広まった。訳者は西田維則ら。))を閉じ、
彼女は窓から身を乗り出して青年をよく見ようとした。
「誰……だ?」
首を傾げ言った青年の耳は奇妙な形に尖って、人ではないもののように見えた。
彼女は安心させるように微笑むと、更に窓から身を乗り出した。でないと、彼が消えてしまうような気がした。
「それは、私の言うべき言葉でしょう?妖怪さん」
「………」
黙って見つめる青年の目に、彼女は病気ですっかり細くなった自分の指を見つめた。
「食べても美味しくなさそうでしょう?もうすぐ死んでしまう体だから……」
彼に食べられるために今まで生き長らえて来たのだと、その時彼女は思った。彼が生きるために、自分を食べに来たのだと……
しかし、その言葉に彼は怒ったように眉を寄せた。
「オレは…オレは沙悟浄((さごじょう。
中国四大奇書【西遊記】の登場人物。作者は呉承恩(ごしょうおん)。
天界の武神だったが、罪を犯して地上に落とされた。
大抵、日本では河童扱いされている。
しかし、原作では冷静沈着、悪く言うなら影の薄いキャラだった。
【帰れないあの日】での沙悟浄は、朱鈴の生み出した妖怪である。
つまり、原作とは別の妖怪となっている。(性格とかも変わったっつーことで……)))という。仏門に帰依する者だ、人は食わな…」
「貴方…沙悟浄なのっ?!」
青年の言葉を遮って朱鈴は叫び、膝の上に置いた『西遊記』をきつく掴んだ。
沙悟浄と名乗った青年はは戸惑ったように半身を引くと、頷いた。
「オレの名は沙悟浄。
玄奘三蔵法師を護り西へ経文を頂きに行く旅をしている……
オレは沙悟浄……長い旅の……っ?!」
突然、青年は頭を抱え込みうめいた。手から落ちた錫杖((しゃくじょう。(梵khakkharaの訳語。声杖、智杖などとも訳す)
1 杖の一種。大乗の比丘の一八物の一つ。
上部のわくに数個の輪が掛けてあり、振ると鳴るので、道を行くとき、
乞食(こつじき)のときなどに用い、また、読経などの調子を取るのにも用いられる。
さくじょう。
2 四箇(しか)の法要の一つ。また、そのときの偈(げ)。
錫杖の偈を唱え、一節の終わりごとに1を振るところからいう。))がカランと乾いた音を立てた。
「どうしたのっ?!」
朱鈴は初めて、心配で胸が痛くなることを知った。いつもいつも心配されるだけでいた彼女にとって、人の痛みが耐えがたい苦痛に思えた。
顔を上げた悟浄は泣いていた。呆然とした瞳で朱鈴を見つめ、透明な涙を流していた。
「オレは沙悟浄。オレは、物語とは切り離された……人の思いの結晶。オレは……」
不安げに揺れる瞳は、その瞬間、彼女にとってなんとしても守りたいものになった。声にならない彼の叫びが聞こえた気がして、彼女は必死で笑顔を作った。
「どこへ行くかも分からないなら、私のお話し相手になってくれる?」
悟浄が素直に頷いたのに力付けられて、朱鈴はいつもの微笑を取り戻した。
「私の名は、高朱鈴というの。よろしくね、悟浄」
彼は口の中で、何度か朱鈴の名を呟いた。
そして、彼女が今まで見たこともない朗らかな笑顔を浮かべた。
「…良かった。君が生まれて初めて会った人で。オレは……」
部屋の外で、誰かがこの部屋に近付いてくる足音がした。
朱鈴の声に様子を見に来たのだろう。
悟浄は少しあせったように周囲を見回すと、朱鈴に近付いた。
「また、来る。朱鈴」
「またね、悟浄」
耳元で囁かれた言葉にくすぐったさを覚えながら朱鈴が言うと、悟浄は照れたような笑顔と一抹の風を残してどこかへ去った。
> 時は西暦にして、一五六七年。中国の幽州、現在は北京と呼ばれる土地ですべては始まった。
> 当時、国名を中国とは言わず明((みん。
中国、朱元璋(太祖洪武帝)が元を倒して建てた漢民族の王朝(一三六八~一六四四)。
初め南京に都したが、二代恵帝から帝位を奪った永楽帝は、
北京に遷都して蒙古を親征、南海諸国にも朝貢を求め、
その勢威は一時は黒竜江からアフリカ東岸にまで及んだ。
中期以降は北虜南倭に苦しみ、宦官の専権が国政を乱し、
内乱・党争が止まず、李自成に北京を占領されて滅びた。))と呼んだ。
> 戦乱は遠く、過去のものとなったその時代は文化の栄えた時代でもあった。
> 後に遺る『西遊記』の完成もこの時代のものとされている。
> 民衆が、女性が活発だったこの時代に、病弱だった彼女は家から一歩も外にでる事も出来なかった。
> そんな中で出会った悟浄は、彼女にとって外の世界そのものだった。
===== 3 妖かしの欲したもの =====
それから、悟浄は毎日朱鈴の前に現れた。街中にある店の犬が吼えてやかましいことだとか、富豪の大奥が町を通ったことだとか、
そういった日常の話をいつも話すために朱鈴に会いに来た。朱鈴は家の中のことだとか、読んだ本のことだとかを悟浄に話した。その頃の彼女は、やはり具合の悪い日もあったが、概ね小康状態を保っていた。そして、たまに悟浄に連れ出され、家の庭に出ることも出来た。
どこをどうしたのか、悟浄のことが朱鈴の家の人間に知られることはなかった。朱鈴も、決して悟浄のことを誰かに話すということもなかった。
やがて、二人が出会ってから二ヶ月が過ぎた。
「おはよう、朱鈴」
いつものように悟浄は、朱鈴の部屋の窓に顔を出した。
「おはよう、悟浄」
にっこりと笑って言った朱鈴に、悟浄は嬉しそうな笑顔を見せた。
悟浄は、人間に変化することが出来た。((人間変身(にんげんへんしん)。
【妖魔夜行】の妖力(ようりょく)の一つ。妖力とは妖怪が元来身に備わった力のこと。
『30CP(キャラクター・ポイント)。人間の姿に変身できます。
この妖力をとった時に、どんな姿になるか決めてください。
自由自在に、どんな姿にもなれるわけではありません。
特定の一種類の性別・年齢・容姿にしかなれないのです。(後略)』
<参考文献>『GURPS 妖魔夜行』グループSNE/山本弘/友野詳 角川スニーカー・G文庫))それは、朱鈴の前に現れてからしばらくしてわかったことだった。それからは、悟浄は人間の姿で朱鈴の前に現れた。彼はほとんど妖怪の姿をとることはなかった。
「少し、外に出ないか?今日、顔色いいし…」
朱鈴が頷くと、悟浄は窓を乗り越えて部屋に入ると、朱鈴を抱き上げた。そして、庭の大木の下にそっと彼女を下ろし、彼はその隣に座った。
「今日は、何かあった?悟浄」
「うーん、そうだなぁ……魚屋のおっちゃんが、猫に魚を盗られて怒鳴りながら走り回ってたよ」
苦笑しながら、悟浄は町のなんてことはない話を始めた。朱鈴は、驚いた顔でそれを聞きながら、時々涼やかな笑い声をたてた。
しばらくして、悟浄はじっと朱鈴を見つめた。一瞬遅れて、朱鈴は奇妙な沈黙に顔を上げた。真面目な顔で見つめる悟浄と目があった。
「どうしたの?」
「オレさぁ……」
言いかけて、悟浄は目を伏せた。
「オレ、朱鈴の前に現れた時に生まれたんだ。
物語と分かれる前の記憶とすぐごちゃごちゃになって、混乱する時もあるけどさ……」
「うん」
「生まれて初めて出会った人が、朱鈴で良かったと思ってさ……」
悟浄は顔を上げると、どこか遠くを見つめた。
「朱鈴は、何かやりたいことってある?」
「やりたい事?」
悟浄は遠くを見つめたまま頷いて、小さく「夢とか」と呟いた。朱鈴は少し考えると、彼女もまたどこか遠くを見つめた。
「旅がしてみたいな……一度、和国((わこく。倭国ともいう。日本のこと。中国漢時代以降、日本をこの称で呼んだ。))にも行ってみたいわ」
「隣の国か…いつか行こうよ、一緒に」
悟浄は朱鈴を振り返ると言った。朱鈴は前を見つめたまま、笑顔を浮かべることなく沈黙した。
「行けるよ……」
朱鈴は小さく首を横に振った。
「ごめんね、悟浄」
消え入りそうな声で、朱鈴は呟いた。悟浄は一瞬だけ息を呑むと、朱鈴の顔を自分の方に向けさせた。
少しだけ迷うように、悟浄は口篭もった。
「朱鈴、人間は奇跡だって起こせるんだ。
諦めてたら、何も出来ない。
願うことが大切だって、それはわかるだろ」
「そうね……」
朱鈴は目を反らして、呟いた。
「オレがいるよ。オレがここにいるよ、朱鈴」
朱鈴はようやく悟浄に目を向けた。
「朱鈴は奇跡を起こしたんだ。オレは、朱鈴の起こした奇跡だろ?」
「悟浄が奇跡?」
悟浄は力強く頷いた。
「オレは、人間の…朱鈴の想いが生んだ妖怪だよ。
オレは、朱鈴の為に生まれたんだ」
朱鈴は呆然とした表情で、悟浄を見つめた。
「何よりも強いのは、人間の想いだから……」
朱鈴は小さく息を呑んだ。何かを言いたくて、でも声にならないと言うように、何度か唇を開いて閉じた。
悟浄はじっと朱鈴が話し出すのを待った。
「私……旅がしたい。たくさんのものが見たいの。
いろいろな人に会いたいの、たくさんのことを知りたいの……」
零れ落ちた涙を悟浄は見ない振りをした。黙って、笑顔で朱鈴の頭を抱き寄せた。
「諦めたくないの…嫌なこともあるかも知れないけど、逃げたくなんかないの」
朱鈴は悟浄に抱きついた。
「好きなものを好きって言うのは、そういうことだと思うの、悟浄」
「……まずは、和国から行こうな?」
「うん」
朱鈴の顔にようやく笑顔が戻った。悟浄を見つめて、朱鈴は晴れやかな笑顔を見せた。それは、いつもの諦めた笑顔ではなく、未来を…希望を見つけた笑顔だった。
「悟浄……」
泣きじゃくりながら、朱鈴は言葉を見つけた。一番、言いたかった言葉を。
「大好きよ」
> 確かに、この時二人が幸せだったことは間違いなかった。
>彼女は奇跡に頼る必要もなく、病気なんて治す気でいたし、
>その意志は彼女の体調まで影響し、実際具合も良かった。
> そして、旅をするのだという目標もあった。
>悟浄は、朱鈴に会えない夜に仕事をして、資金の用意もしていた。希望は二人に活力を与えていた。
> そう、だから幸せだった
> あの日までは――――
===== 4 失いし者たち =====
既に二人が出会ってから、半年と少しの時が過ぎていた。朱鈴は相変わらず、家から出ることも出来なかったが、それでも大きな発作を起こすこともなく、少しずつ良くはなっていた。医者からも、治る希望が出てきたと言われるようになった、そんな頃だった。
悟浄は、その身元の問題もあり、仕事のほとんどが夜の警邏だった。いつものように、明け方に終わった仕事の帰りだった。昼過ぎに朱鈴のところへ行く前に、少し眠るつもりで、悟浄は町を歩いていた。
ふと、悟浄の耳に会話が飛び込んできた。
「なぁ、お前聞いたかよ」
「何を?何かあったのか?」
この時、悟浄は何も知らなかったし、最初は会話すら本当は聞こえていなかった。
「ほら、高さんの―――」
ふと、気になる言葉を聞いた気がして、悟浄は振り向いた。男が二人、深刻そうな顔で話しているのが、視界に入った。
「あぁ、ひでえよな。強盗だって?」
「ばぁか、そんなわけあるかよ。殺ったのは、蘇だってよ。証拠はないけどな」
「これからは、蘇の天下かよ。高さん、いい人だったのにな」
じっと見つめる悟浄に二人は気付かず、話は続いていた。そして、ふと片方の男がため息をついた。
「一族すべて皆殺しだろうな…」
「って、息子と娘がいたんだっけ?」
何故か、悟浄は息を呑んでいた。知らず背中を冷たい汗が流れる。
「朱晟と、朱鈴っつったよなぁ…」
「今、なんっつった…お前ら、何の話だ?!」
悟浄はたまらず、声を上げた。男たちが驚いたように振り向いた。
「その話、詳しく聞かせろ!!」
目立たないように、とかそういう普段気を使っていることは、すべて頭の中から消えた。ただ、酷く震える手だけが、悟浄の気に障った。
男から話を聞き、悟浄は朱鈴の家に向かい走り出した。
男たちの話とは、今朝執務室で朱鈴の父、高正弦が殺されているのが発見されたというものだった。執務室が荒らされていた形跡があり、一応は強盗の仕業ということになったらしいが、昨日政敵蘇有為と言い争っていたことと、蘇が夜半に官庭から出て来るところを見たという者があり、風評では、すでに蘇が殺したと言われているという。
悟浄は忌々しげに舌打ちをした。町から、朱鈴の家は近く、どう声をかければいいのか分からないまま、悟浄は朱鈴の家についた。窓から声をかけようとした時、中に朱晟がいるのが、悟浄の目に入った。
慌てて、物陰に隠れて様子を窺うとと朱鈴はやはり泣いているようだった。
「どうしてっ!?どうして、お父様が……」
「少し眠りなさい、私が…お前だけは守るから」
発作を起こしたのか、朱鈴は酷く咳き込みながら、泣いていた。
「違うのお兄様。私はそんなことを望んでは……」
「わかっている、すまない…私にもっと、力があれば……」
「ちがう……」
すれ違う気持ちが、外の悟浄には酷く痛かった。そのまま、叫びそうになるのを、堪えて朱晟が部屋を出て行くのを、息を殺して待っていた。
朱晟もまた泣いていた。頬を伝う涙を拭うこともせず、ただ絶望に暗い瞳で朱鈴に謝り続けていた。己の無力を嘆いていた。
「もう…休みなさい、朱鈴」
そう呟いて、朱晟は部屋を出て行った。後に残されたのは、「違う」とうなされるように呟き続ける朱鈴だけだった。
悟浄は努めて平静を装うと、朱鈴の顔を覗き込んだ。
「朱鈴、大丈夫か?」
声を掛けると、朱鈴は目をうっすらと開いた。
「ご…じょう。おに……さま、ちがっ……」
引き攣った笑顔を悟浄は浮かべた。安心させるためだけに、悟浄は笑顔を浮かべた。そして、可能な限り軽い声を出した。
「だっ大丈夫だ、朱鈴。今から代わりにオレが言いに行ってやるから。
だから、少し眠れよ。で、元気になって自分で怒りなおせ」
「お願い……悟浄」
言いながら、朱鈴は気を失うように、眠りについた。
それを見守ると、悟浄は表情を豹変させた。そして、遺体の置いてある部屋へ行った。
案の上、朱晟はそこにいた。
「高朱晟だな?」
縋るように父の遺体を見つめ、涙を流し続ける朱晟に悟浄は声を掛けた。朱鈴には決して見せることのない、冷酷な表情で悟浄は朱晟を眺めた。
「誰も来るなと言った筈だ」
振り返る気はないらしく、微動だにせず、かすかに怒りを含んだ声で朱晟は答えた。
「オレには、関係ないな」
怒りに朱晟は振り向き、悟浄の姿を認めると一瞬だけ目を見開いた。
「何者だっ?!」
知らない人間だと、憎しみに満ちた目で朱晟は詰問の声を上げた。
悟浄は、口の端をわずかに上げて笑みのようなものを作った。
「オレは沙悟浄。朱鈴からの伝言を伝えに来た」
「朱鈴からの?」
朱晟は、驚いたように呆けた表情をした。一方で悟浄は不機嫌な顔のまま口を開いた。
「『お兄様、私はきっと元気になるから、お兄様一人で苦しまないで。
父様、母様も、私もお兄様のこと大好きよ』…だそうだ」
力を失い、ずるり…と朱晟の体が沈んだ。
「分かっている、あの子は強い子だ。本当は、私の方が守られているんだ」
悟浄は舌打ちしたいのを堪えて、気付かれないように小さく息を吐いた。
「甘えるなよ……あの子を泣かせるな」
それだけを言い残すと、悟浄は再び朱鈴の傍にいるために朱晟を残して立ち去った。朱晟は一瞬だけ顔を上げ、縋るように悟浄を見たが、走り去るその姿に再びうつむいた。
> それを期に、朱鈴の体調は再び悪化した。心因性のものが大きいと、医者は言った。
> 蘇有為は特に何かの刑罰を受けることはなかった。証拠が挙がらなかったためだ。
>しかし、蘇の手と思われる暗殺者が時折、朱鈴と朱晟を襲った。
>それは、悟浄がすべて撃退していたが、どちらにせよ、朱鈴の命はもう長くはないと誰もが気付いていた。
===== 5 永遠の約束 =====
西暦一五六八年三月一二日。
その日は悟浄にとって永遠に忘れられない日となった。
高正弦が殺されてから一ヶ月が経とうとしていた。朱鈴の体力は一時よりも随分と落ち、悟浄は仕事を辞め、出来る限り朱鈴についていた。悟浄が付いている時は、朱鈴の容態が少し安定することもあり、突然現れた男が朱鈴の傍にいることを家人の誰もが何も言わなかった。
「ごめ…ごめんね、悟浄。私……」
もう、囁くようにしか喋れない朱鈴の声を聞くために、悟浄は朱鈴に顔を寄せた。
「もう、長くないね……」
ふわりと開いた朱鈴の目は、既にすべてを受け入れ穏やかな色をしていた。
生まれて初めての無力感が悟浄を責めていた。朱鈴は何も責めない。父親を殺した蘇のことすら恨んでいない。それでも、悟浄は何もかもを恨みたいような、そんな気分だった。
「朱鈴…何か望みあるか?」
物思いを振り切るように、悟浄は言った。朱鈴は少しだけ考えると、目を閉じた。
「お兄様と、悟浄が幸せでいて欲しい……」
悟浄は言葉に詰まった。
朱鈴は何もかも知っているのだと、そう悟浄は悟った。自分の知らない世界に朱鈴はいるのだと、諦めではなく、受け入れることを朱鈴がしているのだと悟浄は知った。
「悟浄、幸せ?ちゃんと……幸せ?」
声を掛けられ視線を上げると、朱鈴が不思議な目の色で悟浄を見つめていた。
「オレは…朱鈴と会えたから幸せだ。朱鈴が笑ってくれるから、ちゃんと幸せだ」
悟浄は、迷いのない目で朱鈴を見つめた。
「オレは朱鈴のために生まれたんだ」
朱鈴は少しだけ微笑んだ。
「ありが…とう、少し眠ってもいい?」
「あぁ…眠っても、そばにいるから」
それが、最後の穏やかな時だったのだろう。
夜半も過ぎ、皆が寝静まった頃、朱鈴の容態は急変した―――
朱鈴の咳き込む声に、悟浄は目が覚めた。声を掛け、朱鈴の名を呼んだ悟浄の声が聞こえているのか、朱鈴はうなされるように、呟き続けていた。
「朱鈴っ!?」
「ごじょ…私、死にたくなっ……もっ…と、生きてたっ……」
更に朱鈴は激しく咳き込んだ。咳に血が混じっている。
「まだ…なにもしてなっ……」
「オレはまだ、朱鈴と話したいことも、聞きたいこともたくさんあるぞ…」
泣きながら、うなされる朱鈴に悟浄は冷たいものが背中を流れるのを感じた。
「まだっ…まだまだ、たくさんあるんだ!!」
絶叫に、家人の起きた音がした。しかし、悟浄は既にそんなことに気を回す余裕はなかった。
「まだっ十八年しか生きてないだろっ?!夢だって!!」
溢れる涙すら、気にならなかった。ただ、朱鈴の顔がぼやけることが、煩わしかった。
「ご…じょう……わたっしのこと…忘れ…で、お願っ……」
朱鈴は苦しい息の下で呟きつづけた。そして、必死に目を開いた。しかし、ほとんど視力を失っているのか、焦点の合わない目で、それでも悟浄に向かって目を向けた。
「わらっ…笑って、私の……悟浄……」
「―――ッ…オレは……」
悟浄は必死で笑顔を浮かべた。
「朱鈴に会えて幸せだ」
「…ね……にあ………よ」
「え?何?朱鈴、聞こえない……」
朱鈴は穏やかな笑みを浮かべて目を閉じていた。
「朱鈴?」
いい夢でも見ているのかと思う程、穏やかな死に顔だった。涙の跡も乱れた髪もそのままに、うっすらと微笑んで朱鈴は永遠の眠りについた。
朱晟の絶叫すら、悟浄の耳には届かなかった。
ただ、四海((せかい、しかい。
四方の海という意味から、世界、天下、世の中、国中などの意味がある。
また、仏教用語で、須弥山(しゅみせん)をとりまく、四方の世界という意味がある。
須弥山とは世界の中心にあるという山のことである。))が終わったような奇妙な静けさの中に悟浄は放り出されたような…
そんな、別れだった。
> 高朱鈴、享年十八歳。
>四海中を旅することを夢見ていた少女は、
>自分の家から一歩外に出ることも叶わないまま、その短い生涯を閉じた。
> 沙悟浄はその後、蘇有為を暗殺。
>そして、高朱晟が死ぬときまで、その片腕として政界を暗躍し、
>その後朱鈴の遺志を継ぎ、四海中を旅した。
===== 6 帰れないあの日 =====
一九九九年四月。
日本国内近畿地方のとある都市((暁都(ぎょうと)。
暁都府暁都市【矢荷成荘(やになりそう)】。これが、浄也の本来の物語の舞台である。
もちろん、その響きから察する通り、京都府京都市のパロディである。
矢荷成荘は市街地から少し離れた、(山科駅とかに看板がある○○探偵事務所のある)ところにある。))に、オレはいた。名前を西行浄也と変え、妖怪に関わる事件を専門に扱う探偵事務所((【カルロス妖怪探偵事務所】
TRPG【GURPS妖魔夜行】の世界観において、常葉夏惟が参加していたキャンペーンのシリーズ名。
所長カルロス・佐藤(かるろす・さとう【人間】)、新名考治(しいなこうじ【イドの怪物】)、九ノ神冴威牙(このかみさいが【剣の妖怪】)、サプラ(【サンダーバード】)、西行浄也(【沙悟浄】)、水乃宮海音(みずのみやかいね【人魚】)、黒崎笑也(くろさきえみや【死神】)らが、妖怪に関わる事件を扱う探偵事務所をしているという話。
このシリーズは、司狼雪月&常葉夏惟コンビの同人サークル【RUN ABOUT】において、過去三作程発行されており、更に未発表作品として、何作かの漫画及び小説がある。
漫画版【帰れないあの日】(未発表作品)では、司狼雪月との対談がある。 ))で、何人かの妖怪と人間の所長に囲まれて、割と平凡に毎日を送っている。
仲間がいて、そこそこエキサイティングな毎日だ。結局、オレはあれから中国に住むことはしていない。
「まぁ、オレの生まれた時って、そんな感じかなぁ……」
「浄也さん……」
絶望的に暗い顔で所長が呟いた。無意識に右耳の赤いピアスに手が伸びる。
先日、舞い込んだ事件に関わるオレの過去を、必要もあって、所長カルロス・佐藤に話していたのだ。蘇有為が妖怪として、現世に復活したのだ。
「って、わけだからさ…海音ちゃんはいいとして、
考治君とサイガには所長から話しといてよ」
「浄也さん……」
あれから、五百年近くの時が過ぎた。それでも、約束通りオレは朱鈴のことを覚えている。確かに細かいところなんて忘れてるところもあるけれど、まだ、彼女を愛していたことを覚えている。
母であり、娘であり、姉であり、妹であり、そして最愛の人だった朱鈴。
あの時、聞き取れなかった朱鈴の言葉を決して知ることは出来ないけれど、オレはちゃんと幸せでいる。
短かったけれど、彩やかに生きた朱鈴。
願わくは、彼女が今も幸せでいることを……
『そうね、悟浄に会えて私も幸せよ』
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